01年12月号:桐山孝太郎@ツアー2001-02第1戦

【まえがき】
 桐山孝太郎は98年からウエスタン・インビテーショナルに参戦し始め、2000年のシカゴでのクラシックに初出場。同年8月からトップ150シリーズに参戦。2年目の開幕戦となる2001年8月のレイクセントクレア戦で、プロシリーズ初のトップ10フィニッシュを決めた。

 本稿はその2001年8月のレイクセントクレア戦をレポートした前回の記事「01年12月号:ツアー2001-02第1戦レイクセントクレア」の第二部であり、桐山選手をフィーチャーしている。プロシリーズにおける日本人選手の決勝進出は当時まだ珍しく、本編とは別枠を取って紹介した。



桐山孝太郎
バスマスターツアー初のトップ10入り!

バスマスターツアー(旧トップ150)参戦2シーズン目を迎えた桐山孝太郎がついに自己初となる決勝進出(トップ10入り)を果たした。
桐山はこれまでウエスタン・インビーショナルなど西部地区のトーナメントを中心に上位入賞を果たしてきたが、ナショナルレベルのプロたちがしのぎを削るバスマスターツアーでの決勝進出は今回が初めて。
今後の試合における活躍にも期待が集まる。

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photo by OGA



「片道3時間もかかってしまった」という桐山の戦略とは・・・
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2日目のウェイインで、桐山は思わず拳を突き上げた。19Lbジャストのリミットはこの日のトップウェイト。
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 「行くしかないでしょう」。

 3日目を7位で終え、バスマスターツアーにおける初の決勝進出を決めた桐山は、早くも翌日のプランについて思いを巡らせていた。〈行くしかない〉場所。それはもちろんエリー湖のことだった。

  「でも北風だったら、エリーの入り口がよくなるから、遠く行かないで、そっちでやろうかなと思って」。

  決勝の戦い方について冷静に状況を分析する桐山を見ていると、初めてトップ10入りを果たしたアングラーだとはとても信じられなかった。緊張している様子は微塵も感じられず、それどころか、トップ10に入ったことを颯々と楽しんでいるようにも見えた。しかし、決勝進出を決めるまでの3日間は、桐山にとって決して楽な道程ではなかった。

  桐山はエリー湖に2ヵ所のエリアを持っていた。ひとつはショアラインから数マイル離れた湖の沖に位置する島周り。もうひとつはデトロイトリバーがエリー湖に流れ込むマウス部分である。

  そのうち、沖の島周りは判断の難しいエリアだった。そこではごく短時間で20Lbのビッグリミットを揃えることさえ夢ではなかったが、もしも湖が荒れた場合には、そこに辿り着くこと自体が困難になるはずであり、最悪の場合、漂流や遭難といったアクシデントも考えられた。また、たとえデッドカームの時でも、往復の移動には3時間半をみておく必要があった。もちろん、多少でも湖が荒れれば、移動時間はさらに増大していく。

  もうひとつのエリアであるデトロイトリバーのマウスについては、少なくとも移動に関する心配はなかったが、肝心のウェイトはそれほど期待できず1日15Lbがマックスだった。万一、試合が1日18Lb前後のヘビーウエイト戦になった場合には、上位入賞のチャンスは確実に遠ざかるはずだった。そこで桐山は、とりあえずマウスエリアを基本戦略に据えた上で、天候の隙に乗じて沖の島周りまで走り、プラスアルファのウエイトアップを計るという戦略をとることにした。

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決勝では、タフコンディションに合わせてドロップショットリグを主体に使用した。ドロップショット(ダウンショット)リグでメインに使用したベイトは、ロボの4inシェイカーとレイクポリスのクロステールシャッドの2つ。

 8Lb11oz(3尾)、93位タイという平凡な結果で終わった初日は、朝から吹き荒れた強い南風が桐山の行く手を阻んだ。沖の島周りに行けないことは朝の時点で明らかだったが、マウスエリアで必要以上に無駄な時間を過ごしてしまったのも事実だった。南風が吹いた結果、デトロイトリバーから流れ込むカレントが止まってしまい、本来付くはずのスポットからスモールマウスが動いてしまったのである。

 初日を93位で終わり、後がなくなった桐山は、2日目、大きな賭けに出た。思い切って沖の島周りへ向かい、初日の遅れを一気に挽回しようと考えたのである。だが、2日目もまたエリー湖は荒れていた。この日、セントクレア方面では風はほとんど吹いていなかったが、約70km南に位置するエリー湖はまったく別の世界になっていたようである。依然として南風が吹くエリー湖は、はるか沖から次々に押し寄せる巨大なウネリによって、海のような激しさを見せていた。

 しかし、桐山としては、だからといって諦めるわけにはいかなかった。南風が吹いている以上、どっちみちマウスエリアには期待できないことを初日の結果が教えていた。ウネリを越えて沖を目指すしか、ビッグウエイトをねらえる方法はなかった。

 「結局、行きだけで3時間もかかっちゃった(笑)。そのうち、エリーに入ってからたった数マイル進むのに2時間以上。アマチュアは完全に怯えてましたョ。申し訳ないと思ったけど、仕方ないなと」。

 しかし、その勇気と苦労は報われた。実際に釣りをしたのは2時間程度にすぎなかったが、キャッチしたリミットは2日目のヘビエストウエイトとなる19Lbに及んだ。これによって桐山は一気に22位まで急浮上し、トップ10入りの足がかりをつかむことに成功したのである。

 2日目の朝、あの状況下であえてエリー湖の沖を目指した桐山の決断力は、コンペティターの資質とは何なのかを明確に示唆しているように思えてならない。どうも今後の桐山の戦いぶりから目が離せなくなりそうだ。

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決勝ではリミットを達成することができず、順位を落として9位を最終成績とした。桐山にとってはバスマスターツアーにおける初のシングルである。
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DAY 1:93位 8Lb11oz(3尾)
DAY 2:22位 19Lb0oz(5尾) 計27Lb11oz
DAY 3:7位 15Lb9oz(5尾) 計43Lb4oz
DAY 4:9位 11Lb10oz(4尾) 計54Lb14oz
獲得賞金 $7,000



【あとがき】

 決勝の日、自分は桐山選手のスキーターに乗り込んだ。B.A.S.S.を買収したばかりのESPNは試合現場での番組収録がまだ今ほど本格的ではなかったため、決勝日に同船取材する選手をほぼ自由に選ぶことができたのだ。このあたりの背景については、おそらく次回の記事のあとがきでまとめて書くことになると思うが、とにかく、この2001年8月の段階では、決勝の日にファイナリストと同船取材するという選択肢がまだ存在していたわけである。

 本文中にも書かれている通り、桐山選手はエリー湖にエリアを持っていた。決勝の日も、朝イチからエリー湖を目指したのだが、この時のスタート後の「走り」がなかなか凄かった。

 決勝に残った10人のうち、バンダムやゲーリー・クライン、スコット・ルークらもエリー湖にエリアを持っていたが、他にもトム・バーンズとビル・ウィルコックスの二人がデトロイトリバーを釣っていたため、スタート後、実に計6艇が南へ向けてプレーニングに入った。結構な北風と白波。セントクレア北西岸のスタート地点から南(デトロイトリバー方向)へ向かうには、高い追い波を越えていかなければならなかったが、そこに抜きつ抜かれつのデッドヒートが加わった。バンダムとクラインはプロの中でも操船の荒さで知られているのだが、桐山のそれもまた負けておらず、後ろから強引に追い抜きを掛けてきたバンダムを指差し、「コイツら、狂ってるネ!」と叫びながら、そのバンダムを抜き返そうとさえした。なにしろ、ただでさえ白波立つ追い波の中を進んで行かねばならないのに、船団の後方に回るほど他船の引き波まで加わり、まともに走れなくなるのだ。桐山選手の負けん気の強さを自分はその時初めて知った。

 日本人アングラーがアメリカのプロシリーズで戦い抜くために必要な条件のひとつこそ、「負けん気の強さ」だと自分は思っている。アメリカという異国で、選手はおろかスタッフもスポンサー関係者もほぼ全員が白人という世界で、マネージャーやコーチの助けもなく、たったひとりで戦わなければならないのである。精神的なタフさが何にも増して重要な資質であることは疑問を差し挟む余地もない。

 去る4月下旬にアメリカ南部を襲った竜巻群による被害の様子はおそらくご覧になった方も多いだろう。実はアラバマ州バーミンガム近郊にある桐山選手の自宅も竜巻のため屋根が飛んでしまったそうだ。付近には基礎しか残っていない家も多かったらしい。それだけでもたいへんな災難であるわけだが、その前週にはなんと路上で追突事故に遭ったという。しかも、追突して来た車のドライバーは無保険だったらしく、治療や車の修理には自分の保険を使わなければならなかった。桐山選手はそんな自身の不運続きを「前厄でコレってことは、本厄はどうなんの?」と笑い飛ばしていたが、恐ろしくタフなメンタルを持つ桐山選手のこと、きっと乗り越えるだろうと確信している。